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2011年12月4日日曜日

「天皇の名の元に、皆死ぬ事より苦しい思いをさせられた事を忘れないでほしいからです」

NHKスペシャル 日本人の戦争 第二回 太平洋 絶望の戦争を途中から見ました。
http://www.nhk.or.jp/special/onair/111204.html




メモをとっていなかったところもあるのですが、
ニューギニア兵として行って生き残った方が、現地の悲惨な状況を証言されているところから見ました。自決するのに自分ではできないから殺してくれという兵もいて、やりたくないから下士官か班長にやれと言ったけど嫌だというので、自分がそのひきがねをひいたこともある、親が聞いたら何と思うだろうか。と、涙を浮かべておられました。飢えと病気で、多くの方が亡くなり、他の方のインタビューでは、蛆虫が目などから沸いている人に助けを求められたが、自分もやっと歩いているほどでとても助けるなんてできなかった。など、あまりに悲惨なのでニューギニアのことはもう思い出したくない、たくさんの元兵士の方が悲惨な状況を証言されていました。


沖縄の伊江島のところからメモをとりました。


伊江島の上空から映像。島の中央あたりに突き出た岩山がありました。伊江島のイシカミさんは
辛い思いでこの戦争を見ていたのではないでしょうか。


伊江島住民3000人のうち1000人が戦場に動員された。14~16歳の男子は青年義勇兵。
女性たちも看護班とされた。アメリカ兵上陸後3日で島の半分が占領されてしまい、青年義勇兵にも突撃命令が出された。
救護班の女性たちも前線に砲弾を運ぶ任務をした。


当時18歳元救護班おおしろさんの証言。
日本兵、義勇兵、救護班の人たちとともに、壕に追い込まれた。
壕を出て、最後の総攻撃をしかけることを決める。おおしろさんは幼い妹がいるので
残された。出て行った他の救護班の仲間の女性たちが、生き生きと踊りでも見に行くように、手柄を立てようねと
出て行ったが戻ってこなかった、誰も。(皆亡くなった)




当時9歳、国民学校生徒のなみさとさんの証言。
砲弾の音がとどろく中、壕に生後6ヶ月の弟と母と避難した。子供(6ヶ月の弟)が壕の中で泣き、
皆がいらつき、他の住民か日本兵が?20歳くらいの義勇兵に、(子供を)「撃て」と命じる。
言葉にも文字にも表せない壕の中の異常な緊張感の中、母は弟を息ができないくらい
胸に押し当てて、殺した。母は戦後はふさぎこみ、亡くなる間際、子供の名前を叫んでいた。


伊江島では90の家族が一家全滅。1500人の住民が亡くなった。


長い戦後、自らを責め続ける元兵士の方々のお話。
旧ニューブリテン島兵士 もんでんさんの証言。戦場を撤退するときにまだ息のある兵士を置き去りに
するように命ぜられた。すっかり高齢になられたもんでんさんが喘ぎ泣く。
どうせもう死んではいるのだろうけれど、自分で自分が許せない。と証言されていた。


ルソン島元兵士 佐野さんの証言。
中隊長として、部下に死を覚悟の切り込みを命じ、自らも突撃した。
部下の名前を書かれたノートの名前を見ながら、死んでしまいました。と話される。
約200人の部下のうち、戦場から生き残ったのはたった4人だった。
佐野さんの奥さんが、この人は外に出かけないと言う。戦後、子供が家や病院を建てたときも
決して出かけなかった。
あれだけ人(部下の兵士)に死ぬことをすすめてきたのに、自分が遊びに
行くわけにはいかない、「戦争だけは絶対にしたらいけない」この証言をしたあと、
3ヶ月後、佐野さんは亡くなられたそうです。










以下すべて「地球の謎解き」さんの2005年5月31日のお知らせから、一部抜粋。


2005年5月31日21時 右側頚部にややきついズキズキとしたサインあり。
聞くと。
「地球です。
私がきついお知らせをして欲しいと頼んだのです。
それは苦しいのに、イシカミが地震を起してくれなかったからです。
(宮崎で震度4の地震が起きて) いま少し楽になりました」


2005年5月31日 11時4分ごろ  震源地 日向灘  深さ 30km  M5.7


(お知らせはこれだけで良いですか?)


「まだお知らせする事があります。
ミンダナオ島で元兵士が居ると言わせたのは、イシキに降りて (幽霊の姿?を) 見て貰ったのです。
本当に悲惨な事だったのに、みんな忘れてしまいそうだからです。
(戦争の時の) その苦しみを、イシキは皆に知って欲しいという思いを持ち続けているのです。
天皇の名の元に、皆死ぬ事より苦しい思いをさせられた事を忘れないでほしいからです」


書くことでズキズキ感は完全になくなりました。

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